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Tuesday, March 11, 2008

Article 9 Essay by Sungsook Lim

Here is another essay on Ariticle 9 by Sungsook Lim, a UBC PhD student anthropology.

私にとって憲法9条とは

わたしは最近大学で日本語講師のアルバイトをはじめた。日本語のネイティブであるから、当たり前のことではある。しかし、よく考えてみると、私が「日本語」ということばを海外で教えていて、「日本語」以外は教えられないという現実は、決して単純な事実でないような気がしている。生徒の前で、日本語や日常的な文化について説明する際、いつも違和感がつきまとう。日本の名前はない、両親を「お父さん」、「お母さん」と呼んだことはない、日本の学校で義務教育を受けていない、大学に入学するまで日本人の友達は一人もいなかった。果たしてこんな私がなぜ海外で「日本語の先生」でいられるのか。幸いカナダという移民で成り立つ多文化という環境のおかげで、生徒さんは誰も違和感を感じていないようだが、誰よりも私自身がこのぎこちなさを感じていることが問題なのである。このように日々の生活の中で経験し、感じる、一見すると些細なことが、長い間積み重なると一体その原因はどこにあるのかということを考えずにはいられない。

このような経験から、わたしが今まで一貫してつねづね考えてきたことは、日本の植民地支配とは一体なんだったのかということにつきる。最近は「何だったのか」という問題設定自体、間違えている気がする。なぜならそれは決して終わった「出来事」ではなく、まだ進行中であり、再生産されている一種の社会的プロセスだからである。このプロセスには国家、教育といった制度からメディア、家族などが重層的に関わっていることは十分承知である。もちろん私自身も含めて。そしてこの過程を最悪の方向へ進まないようにしているのが憲法9条だと思う。しかし、皮肉にもかろうじて9条という法だけが、日本の右傾化、武装化、そして戦争参加を止めているのであれば、これは非常に深刻である。これは、日本にはすでに9条以外に最後の歯止めとなるものが無いということを意味する。そしてまたこれは結局アジアの人たちの声が、届いていないことを意味する。なぜなら「日本市民」ではない多くのアジアの人は9条より、日本の植民地支配の残存―天皇制、繰り返される政治家の妄言、アジア蔑視、未解決な過去の清算―について直接的に訴えかけてきたからである。このような状況の中で、日本政府はネオリベラリズムによる経済的利益追求のために周辺国の機嫌をとる「国際関係」という枠の中でのみ、たてまえとしての9条を生かしてる。

わたしはこの政府のたてまえとしての9条を、市民の9条にしなければならないと思う。そしてわたしは敢えて9条を危機感をもちながら訴えていきたい。なぜなら一度の「改憲」が植民地という呪いを解き放つどころか、とりかえしのつかない新たな支配を生み出すからである。

2008/02/19
林聖淑/ Lim Sung Sook
UBC 博士課程・人類学専攻

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