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Wednesday, September 06, 2017

髙實理事長への追悼の言葉:園田尚弘(岡まさはる記念長崎平和資料館理事長)Remembering Takazane Yasunori: Sonoda Naohiro, Director of Oka Masaru Memorial Nagasaki Peace Museum

今年4月7日に亡くなった「岡まさはる記念長崎平和資料館」高實康稔理事長にかわり、新理事長となった園田尚弘さんによる高實さんへの追悼文をここに紹介します。資料館のニュースレター「西坂だより」第86号(2017年7月1日)に掲載されました。末尾の関連投稿とあわせてお読みください。

2013年8月9日、長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼早朝集会にて話す高實康稔氏。


髙實理事長への追悼の言葉

2017年5月10日 

岡まさはる記念長崎平和資料館理事長
園田尚弘

あなた方が私を探す時には、あなた方の心の中に私を探してください
そこに私が一つの場所を見つけたならば、私はいつもあなた方のもとにいるでしょう。
         アントワーヌ・ド・サン=テクジュペリ

 私たちの敬愛する友人、岡まさはる記念長崎平和資料館(以下では平和資料館と略記)理事長の髙實康稔さんが亡くなりました。
2017年4月7日、心不全のため77年の生涯を終えました。死に顔は穏やかで、微笑が浮かんでいるようであったそうです。
 2016年11月髙實さんは肺炎ということで入院しました。その後退院、入院を繰り返しながら、療養に努めていましたが、17年4月初めに入院した後、意識が失われ、その後意識を取り戻すことなく、他界しました。
 葬儀は家族葬で行われました。その後髙實さんが関わっていた市民運動の友人たちの呼びかけで「髙實康稔さんとのお別れの会」が計画され、5月7日に長崎県総合福祉センターで行われました。しめやかな雰囲気のなかで、しかも盛大に催されました。

* * * * * *
      
 髙實理事長は若い時からさまざまの社会活動や平和運動にかかわっていました。それゆえ多くの人は理事長の一部しかご存じないと思われます。そこで限られた視点からではありますが、簡単にその活動の一端を紹介させていただきます。

長崎在日朝鮮人の人権を守る会での活動
 髙實さんは1969年長崎大学教養部にフランス語担当教員として赴任しました。長崎大学のなかでも大学生協の理事長を務めました。
1971年から1972年のフランス留学から帰国した後、1976年から「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」との関わりを活発にし、大村収容所などにでかけ、収容された韓国人などの救援活動を行いました。1979年より長崎市議で「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」代表であった岡正治牧師等とともに精力的に被爆朝鮮人の実態調査に乗り出しました。その成果は『原爆と朝鮮人第1~7集』、『朝鮮人被爆者』(社会評論社1989年)などとして出版されました。朝鮮人被爆者の掘り起こしは死去するまで続けられていました。1979年には「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」が「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」の主導で爆心地公園に設置されました。追悼碑の前で毎年8月9日早朝に行われる長崎原爆朝鮮人被爆者追悼集会を髙實さんはとても大切に考え、毎年、心をこめて書かれた格調高いメッセージを発表してきました。

教育通信・言論の自由を求める会での活動
 教育の面でも活動しました。学級通信、通知表問題を契機に「長崎の教育通信」の発行に関わり、後には代表になり、鋭い批評精神に富んだ巻頭言をたくさん書きました。教育のかかわりでは学校に居場所を感じられない生徒たちのための空間「リベルテ」の設立につながりました。
 忘れることができない活動は、故本島等市長が天皇に戦争責任があると長崎市議会で発言したことを擁護する活動でした。市長発言は右翼勢力の反発を呼び、右翼の街宣車が市中を走り回る状態になりましたが、平和活動家として髙實さんが終生尊敬していた岩松繁俊さんたちとともに市長発言を擁護しました。後に市長銃撃事件に際しても積極的に活動、銃撃を批判し、「言論の自由を求める長崎市民の会」の名のもとに一千人集会とデモを実現しました。

在外被爆者支援連絡会での活動
 韓国人被爆者の訴訟支援活動も忘れることができません。在外被爆者の支援活動でリーダー的役割を果たしてきた平野伸人さんらとともに、金順吉裁判、李康寧裁判、等を支援し、日本政府の被爆行政の差別性を批判してきました。在外被爆者に対する不当な差別をなくしていったのは何人もの在外被爆者の裁判闘争によるものだったと、髙實さんは繰り返し強調していました。「在外被爆者支援連絡会」の共同代表を努めていました。亡くなる数か月前まで、被爆者手帳の交付を求めながら、証人がいないということで交付を拒否されていた三人の韓国人被爆者(金成洙さん、裴漢燮さん、李寛模さん)のことを幾度も語り、気にかけていました。病気がよくなったら、支援活動にとりかかろうと考えていたことでしょう。
 髙實さんは自分の周りの韓国、朝鮮人被爆者のひとりひとりの生活の世話も親身になって手助けしました。アパートの保証人になったり、その子どもさんとの付き合いも欠かすことがありませんでした。

中国人強制連行裁判関係での活動
 強制連行された中国人たちの裁判支援活動も忘れることができません。アジア太平洋戦争末期に日本政府は労働力不足を補うために、約4万人の中国人を強制連行して、国内の危険な労働現場で働かせました。髙實さんたちは中国に何度も足を運び、とくに三菱の炭鉱で強制労働に従事させられた元労働者の老人たちを助けて、長崎で裁判を闘う手助けをしました。「長崎の中国人強制連行裁判を支援する会」の共同代表でした。これらの活動は2016年の三菱マテリアルとの和解につながったと評価されてもよいと思われます。平和公園の一角には強制連行され、浦上刑務所に収容されていて被爆死した中国人犠牲者を追悼する碑が建てられています。これの維持管理をになう「浦上刑務支所中国人原爆犠牲者追悼碑維持管理委員会」の共同代表でもありました。
 日本の侵略戦争による中国人犠牲者の数は数千万人に上りますが、中国各地にはこの日本軍の蛮行を記憶しておくための記念館があります。髙實さんが中心となって、平和資料館はこれらのいくつかの施設と友好提携の関係を結んでいます。それは南京の「南京大虐殺記念館」、上海の「慰安婦」資料館、ハルピンの「七三一罪証陳列館」です。
 南京からは毎年、大虐殺を経験した生存者たちを証言のために長崎に招く活動を続けてきましたが、髙實さんは一人一人の老いた幸存者を手厚く遇し、証言者たちが気後れしないように配慮していました。自分でも毎年のように南京を訪問し、日本軍の起こした虐殺現場のフィールドワークに参加していました。

「慰安婦」問題に関して
 現在、日韓政府の間では、2015年末の「慰安婦」問題に関する合意についてもめていますが、この問題に関しては一貫して日本政府の態度を批判してきました。
 この問題も資料館が取り組まなければ問題として、髙實さんは率先して韓国に赴き、挺身隊問題対策協議会を事務所に訪ね、代表であった尹貞玉さんを長崎に招き、講演会を組織し、長崎市民に広く問題を知らせました。アジア女性基金の立場にも一貫して批判的でした。2015年末に発表された日韓合意に対しても、当事者の意見を無視した政府間の合意だとして、一貫して反対していました。



 以上主として社会的活動に焦点をしぼって述べてきましたが、次には学者、教育者としての髙實さんの学問上の仕事を紹介しておきます。
 私は教育者としての髙實さんを高く評価するものの一人です。篤実で熱心な講義のスタイルは、若い学生に対して時間を惜しむことなく、アジアの地における日本の加害の歴史を教える態度にもそのままつながっていました。
 髙實さんは2005年に長崎大学を定年退職しましたが、その間、教養部、環境科学部でフランス語、異文化交流論などの講義を担当しました。環境科学部では評議委員にも選出されました。
 専門研究としてはフランス17世紀のモラリスト文学(とくにラ・ラシューフコー)、フランス・レジスタンス文学(とくにサン=テクジュペリ)、コロニアリズム、ポストコロニアリズム研究(とくに近代日本)で大きな業績を上げました。
 翻訳に『世界のひとへ』(共訳)、リンデン伯著『日本の思い出』などがあります。『世界のひとへ』は朝鮮人被爆者の存在を世界に紹介したもので、また『日本の思い出』は、その訳文の流暢さで,識者に高く評価されました。
 2006年にはフランス語教育、フランス文学研究、さらに朝鮮人被爆者の実態調査が高く評価され、フランス政府より、パルム・アカデミック勲章(教育功労賞)が授与されました。

     * * * * * *

 学術上の業績に次いで、この勲章の件で、思い出したことを記して次にはわたしの目に映った髙實さんの人柄の一端を紹介させていただきます。
 日本政府が勲章をくれるといっても、髙實さんが拒絶したであろうことを私は確信しています。フランス政府が勲章を授与すると知らせてきたとき髙實さんは、考え込んでいました。大喜びで叙勲を喜ぶ人が多い中、髙實さんは自分の活動は勲章で表彰される性質のものではない、という思いがあったからでしょう。私にもどう思うかという問いがありました。謙虚な人柄でした。
 物静かな口調で話すのが常でしたが、平和活動への固い決意は、例えば次のようなきっぱりとしたことばとして表現されました。平和資料館は、2010年にドイツ政府が徴兵制度の中止を決定するまで、2011年まで毎年、兵役拒否をしたドイツの若者たちに代替の役務を提供していました。受け入れのための宿泊費、食事代、毎月の小遣いなど、諸費用は必ずしも安くはありませんでした。私がそのことを知らせたとき、髙實さんは、これらの青年を受け入れなければ、平和資料館を作った意味がない、と決然とした口調で受け入れを表明しました。
 他人を寛容に受け入れ、活動するひとたちの背中を押して、励ましてくれる人でした。平和を作り出していく活動を支えていくという決意と、模範的な人柄にたいする尊敬の念を抱く人たちは国内だけでなく、外国人にも多く、こんにち平和資料館は国際的にも名前を知られるようになりました。岡正治さんの構想を実現、発展させた功績に感謝の念をささげると同時に、私たちはその思いをともどもに引き継いでいきたいものです。
 

園田尚弘(そのだ・なおひろ)
長崎大学名誉教授、ドイツ文学、ドイツ社会思想。著書に『環境と文化』 (共著)などがある。平和資料館には1995年の開設以来参加。1944年生まれ。


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